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ルサンチカ『PIPE DREAM(2019)』を観た
 宙に吊られた人間がゆっくりと回転するさまはなにかしらのイメージを喚起するよりも前に、吊られる者(演者)の死を賭した姿勢とその生命の危険とのあいだにある緊張感でもって観客を釘付けにする。瞬時に決着がつくサーカスとは違ってこの作品ではゆっくりと時間が流れるので、そのたゆたう緊張のなかで観客は演者の語りを聞きながらイメージを喚起させられることになる。こうした仕掛けは、この劇場、あの空間にとても馴染むものだったしその発想の瞬きに感服した。
 まさに演者が死を賭しながら「死」について語ること。この二重になった構図がこの作品の魅力だと思われる。そうすると問題になるのは、今まさに目の前で死を賭して語る演者の生々しい現在と、かつて語られ準備編集された語りという過去との折り合いのつけ方だ。観客はとにもかくにも現在にある生々しい演者の様子に圧倒されている(やがて滑稽に思われて笑ってしまいもする)のでこの強力な現在になにがどう語られるのか、今回はこの点についてはちぐはぐな印象を免れなかった。一つ一つのエピソードは語った本人にとっては絶対であったろうけれども、それが編集されていくつもの話の一つとして列挙されるなかに収まるとき演者の現在に従属させられる。死を賭した演者が万が一負ければ(事故が起これば)語りも止まってしまう構造になっているからだ。たとえ演者が死んだとしても語りは、記憶は残される。そうでなければ結局、死は生の従属物になってしまう。この作品の意図が「死に方」という死ぬ間際の手前にしか興味がないのならそれでいいのかもしれない。けれども作者の意図とは関係なくこの作品の目がけるところはもっと先にあるように評者には思われた。だからこそ舞台にちぐはぐな印象を持ったのだ。
 死という彼岸に目をこらすときにその者自身はどこに立っているべきか。人類は伝統的に「物語」という装置をその居場所にした。この作品には「物語」ではない場所でその場所をこしらえようとする意思と挑戦があった。それらに評者は率直に感服するし次の試みもぜひ拝見したいと思う。

[第40回Kyoto演劇フェスティバルに寄せた講評文を転載]
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