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オイスターズ『豆』の観劇記録
 「オイスターズ」という名古屋の劇団が上演した作品『豆』についての劇評を書きました。公演があった七ツ寺共同スタジオが発行する七ツ寺通信に掲載されるものです(近々発行のはず)。
 名古屋で活動している劇作・演出の平塚さんとはそこそこ長い付き合いがあり、また昨年わたしが名古屋で滞在して制作した作品にはオイスターズの田内くんが出演してくれたにも関わらず、彼らの劇団の本公演を観るのは初めてでした。名古屋まで観に行った甲斐のある作品でした。良かった。
[2012年4月27日(金)観劇@名古屋・七ツ寺共同スタジオ]

<以下、文章>

 新居に引っ越して間もないころ、ポストにわたし宛てではない郵便物が入っている。まったく知らない女性の名前だ。けれども住所は合っている。ちょっと考えるがすぐに分かる。それはわたしの前にここに住んでいた人の名前だろうと。郵便物はパソコンの新製品を知らせるダイレクトメールで、捨ててしまってもいいのかもしれないが、なんとなく気が引けてそのまま机の片隅に置く。取っておいたところでどうしようもないことも分かっているのだけれど。
 前の住人宛ての郵便物はそれからも時々届く。すべて営業のダイレクトメールだ。そうしてわたしの机の片隅には、知らない女性宛ての郵便物が積まれていく。大家さんに持っていこうか。けれども大家さんだって困るだろうし結局捨てるのだろう。パソコンの新製品、化粧品のセール、美容室の割引案内など。わたしは郵便物を手に取って前の住人のことをつい想像してしまう。このワンルームの部屋にわたしの知らない女性が最近まで住んでいた。ベランダに出ても隣の建物が邪魔で景色も見えない。日当たりの悪い、陰が射すような部屋だ。どうしてこんな部屋に住んでいたのか、やはり家賃の安さが決め手だったのか。その女性の前にはまた別の人が住んでいたはずで、だったらかつてここに住んでいた人がみんな集まって同窓会をするというのはどうだろう。何人くらい集まるのだろう。
 くだらない想像が膨らむばかりで、結局郵便物はそのままで。けれども女性宛ての郵便物はだんだんと減ってやがて来なくなる。わたしも女性のことを忘れてしまって、ずいぶん経って溜まった郵便物はまとめて捨ててしまう。
 ここはわたしだけの場所ではない。いまのところはわたしが独占しているが(それも錯覚かもしれない)、何人もの知らない人たちがかつてここにいた。それは届いてしまった前の住人宛ての郵便物で不意に知らされる。あるいは、柱の傷や壁の小さな落書きが残っているのを見つけてふと思い至ることもあるだろう。そうした過去の痕跡は、ここで生活した人々の時間がその場所に積もるようにしてあることを教える。
 オイスターズの『豆』は、あるマンションの一室に積もっている時間を日常で知られるのとは違う仕方でわたしたちに見せてくれる。
 その一室で過ごす24時間を複数の人に分配してシフトを組む。ある人が出勤でいない時間は、仕事の無い別の人がその部屋で過ごすというように。複数の人々は同時にその部屋にいないものだから、連絡ノートがコミュニケーションの手段になる。ノートでのやり取りを登場人物たちは実際の会話で交わす。かれらの一言一言はふつうの会話に見えるけれど、それはノートでのやり取りだから、ある人の台詞と台詞のあいだには少なくとも24時間は経過していることになる。だからちょっとした口論をするだけで一カ月が経つことにもなるだろう。この劇の時間の編み出し方は実に画期的に思われて、演劇でしか実現しえないものだとわたしは思った。この仕掛けがすこぶる面白い。時間がかかるはずのノートでのやり取りがリアルタイムな会話で白熱し、リアルタイムな会話だけれどそこにはノートでのやり取りという時間の規則(自分の発言まで24時間かかる)がある。二つの時間の規則を行ったり来たりするところで面白みがいくらでも出てくる。
 しかもそれだけではない。そうしたやり取りでノートは何冊も溜まっていくが、実はそのノートは過去のもので、現在の時点でそのノートを読む入居者がいる。だからすべては過去の出来事であって、ノートの中の日付はその現在の入居者がノートを読んでいる時点に接近していく。ただ、その入居者がノートにコメントを書くとそれに応答があったりもするので事態は複雑だ。現在の時点にいる入居者ははじめ余裕を持ってノートを読んでいるが、過去からの応答を目の当たりにしてしだいに焦るのである。そして過去のやり取りが彼に迫ったとき、その現在の入居者はその場所から逃げ出してしまう。終幕の部屋はノートだけが残されている。
 つまりそこでは現在と過去との区別が無くなるだけではなく、過去が現在を追い越すといえばいいか、あるいは過去が現在を飲み込んだと言った方がいいのかもしれない、そうしたことが起きている。わたしたちが当たり前だと思っている時間の感覚、過去から未来へと直線が左から右に伸びるように流れる「時間」ではない。それとはまた別の「時間」がこの劇世界のなかでは成り立っている。むしろわたしたちの時間の感覚が当然のものではないことをこの作品は教えるだろう。わたしたちは時計という機械が刻むものに慣れてしまってそれを「時間」のことだと思い込んでいるに過ぎない。先にわたしは、ある場所に時間が積もっているという言い方をしたけれど、その時間の積もり方は郵便物が重なるように過去が下で未来が上になるようなものではない。それは時間を物のように考えるときの錯覚なのだ。
 ポストに知らない女性宛ての郵便物が入っているのを見つけた時の戸惑いと、その女性が前の住人だろうと思い至ったときの奇妙な手触りだ。わたしたちが日常で時間の感覚が揺さぶられるのはそうしたときだろう。しかしその揺さぶられは日常では瞬く間に消えてしまう。『豆』はその瞬間で消えるようなことをとらえて作品にした。
 そしてなにより素晴らしいのは、そのように踏み込んで考え始めると眩暈がするような複雑なことを、コミカルなタッチのドラマのなかに織り込んだオイスターズの手腕だ。
田辺剛(劇作家・演出家)


<以上、文章>

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