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伊丹から福岡、広島へ


下鴨車窓#8『人魚』の伊丹公演が終わりました。ご来場いただいたみなさまありがとうございました。
明日27日の水曜日からの福岡移動まではつかの間の休息。福岡から広島が終わるまでは京都に戻らず、そのまま西日本を周ります。
観劇の感想などをこちらにまとめてあって、福岡と広島の公演を観に行こうか検討している方には参考になるかと。ただ、こういうのはたいてい観て良かったと思う方たちの発言がほとんどで、つまらなく感じた人や何とも引っかからなかった人はいくらでもいて、そういう方は発言はしないので、そのあたりの引き算はしたほうが良かろうと思います。



 感想にはいろいろあって、創る側(わたしも含めて)にも無かった視点や切り口で作品のことが語られて、逆に気づかされるような、教えられるようなそんなことばをもらうときに、自分がすごく豊かな場所にいることを実感する。創る側がすべてを分かっているわけではないと言えば、怠慢な、あるいは奇妙なことと思われるかもしれないが、むしろ創り手としては自らも予測できないものをめがけて創っているのであって、物語からにじみ出て来る「不測の事態」こそが、いま物語を紡ぐというときに必要なことではないかという直感がわたしにはある。
 物語の「寓意性」(アレゴリー)に着目して創作しているのは、そうしたわたしにとっての豊かさを期待するからだ。寓話「アリとキリギリス」のあらすじを説明できない人はいないが、例えば「キリギリス」に孕みうる意味というのは一口では言えない。それは時代や場所、社会状況が変わるとそれにあわせて違った像を結ぶからであって、ある一つの像がそのすべてと言い切ることはできないからだ。「アリ」と「キリギリス」の二つの寓意が組み合わさればさらにその物語全体が結ぶ像は光の乱反射にも似て複雑になる。"あらすじ"だけを見れば単純なお話だけれども(そこで楽しむのも決して悪いことではない)、目を凝らし耳を澄ませばそうするほどに、違った像が浮かんで来る。
 福岡や広島という土地には、伊丹とはまた違う文脈があるはずだ。そうした土地に住む人々が何を観てとってもらえるのか、もらえないのか、とても楽しみだ。

 一方実際の舞台では、ステージごとの出来不出来というものがあって、それは一度しか観ないお客さんにはほとんど変わりの無い差であることは承知のうえで、けれどもその振幅が気になって。それをもうちょっと修正して福岡、広島には臨みたい。今回の『人魚』チームの持つ力を最大限に発揮できるよう、面白い面白くないはあろうけれども、見応えのある舞台にしたい。

下鴨車窓#8『人魚』総合案内(あらすじなど)→
日時・会場・予約:福岡公演→/広島公演→

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