下鴨車窓の『人魚』広島公演が8月4日に終わって、あと2日広島に残れば平和祈念式典に立ち会うことができる。去年と一昨年と、二回連続で立ち会う機会があって、前回でもうさすがに三回目はよかろうと思っていたけれど、今年の式典はどうなるのだろうとにわかに気になってきた。
どうなるだろうも何もなくて、儀式なのだから今年も粛々と同じように執り行われるはずだ。けれどもその場に立ち会う者はいつもとまったく同じようにいられるのだろうか。
そう思うのは、福島での原発事故が現在進行形で続いている現在があるからだ。広島で言うなら8月6日の式典では、否、その日のみならず「ヒロシマ」「ナガサキ」という言説は、核の兵器利用に反対することで平和を祈願する営みであったと思う。それは一方で核の平和利用ということについては触れることはなく、もちろん平和運動の一派には兵器だろうが電力だろうが核そのものに反対するところもあったはずだが、それは「ヒロシマ」「ナガサキ」という言説の中央に位置することはできなかった。原子力発電にも反対ということを言い出すと、あの惨劇の記憶を呼び覚ますことで「平和」を目がける図式がぼやけてしまうからだ。通常兵器を許すわけではないけれど核兵器だけは絶対に許さない、世界の核兵器を廃絶することで平和への道を歩んでいこう、というのが「ヒロシマ」「ナガサキ」の基本図式だとわたしは理解している。その図式を維持するために核の「平和」利用には言及することができなかったのだろう。
けれども日本は、核の平和利用によって平和を失ってしまった。
拡散し続ける放射能に、程度の差はあれ多くの人が不安を感じ、あるいは虚無感とともにあって、事故以前と同じ心持でいることは困難なのではないか。なにかに怯えて生活をせざるを得ない今日の日を「ああ平和だなぁ」とつぶやくことはできない。もはや兵器利用はもちろんのこと、平和利用と言ったにしても、いまの人類が核を取り扱うのは危険なのだという直観が多くの人にあるのではないかと思う。
そうした状況のなかで、「ヒロシマ」「ナガサキ」はとうなるのだろうと思うのだ。広島・長崎市長が式典の演説で核そのものに反対をする演説をするのか。あるいは今までどおりに、核の兵器利用にのみ反対を唱えるのか。「平和利用」という言い方でわたしたちは核を括弧にくくって不問に付してきたが、それはもう通用しなくなっている。核の兵器利用にのみ反対をすることには理由が必要になった。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に向き合う姿勢が問われることになる。まったく思いがけずに。儀式はいつもどおりに進むのに。
二日間、広島での滞在を延長すべきかどうかを悩んでいるのと、Webにはまだ情報が出ていないようだが、マレビトの会が「ヒロシマ」と「フクシマ」について考える企画を広島でやろうとしているのがとても気になっている。
コメントありがとうございます。もうちょっと悩みます。来月よろしくお願いいたします。
これなんかもどうです?
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