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闇をたたえた駅に立ち


本番も二日目。おそらくこの本番期間中というのは、飲み続けることになるのだろうとあらかじめ腹をくくってはいたが(嫌々というのでは決してなく)、今日は阪急の終電より遅いJRの終電まで飲もうと思って、久しぶりにこの時間の京都駅にやって来た。
 昼間の人で混雑した京都駅は、その駅の建物が自身の大きさを見せびらかしているというか、誇示しているように見えて。それが物量で価値が決まる現在の象徴のようにも思われてあまり印象はよくなかったのだけど、夜になって店も閉まり人通りもほとんどなくなって来た時の、まさに終電のときのこの表情は美しいと素直に思った。
 闇を内側にたたえるようにして建っている。
 よく考えると昼間も自然光で駅全体を照らしていて、電気の光でもフォローはしているのだろうけど、だから自然の光がなくなればそのまま駅全体も夜になる。



 建築家はこの建物が夜にこんな表情を見せるだろうことはもちろん分っていたはずだと思うが、多くの人はそんな夜更けに駅を歩くこともないわけだし、だから明るみのなかにある駅だけが「京都駅」なのだと思う、それは自然なことだ。すでによく知られているように街は夜でも輝いていて、むしろ昼よりも輝いていて、闇は追い払われてしまっている。京都駅も陳腐な発想で建てられたなら終電が行ってもまだ輝いていたのかもしれない。
 闇とともに建物があってその中をわたしは通って外へ出る。闇を見せるということをも建築家は考えていたのだろうか。ふつう闇となった建物の中に人は入れないのだから。人が排除されて門は施錠され、そうして初めて内部は闇になるというのが現代の一般的な建築だから。
 光がないこと(=闇)、加えて言うと音がないこと(=沈黙)。このように「○○がない」と否定のカタチで語られるものの価値というものにもっと注目できないのだろうかと常々思うし、今日改めてその思いがよみがえった。自己分析のようになるけれど、例えば今の「旅行者」も含めて最近のわたしの舞台の演出はそうした思いの現れなのかもしれない。

 ところで舞台は二日目、二回目。観客が沸いていても創る側は満足のいかないこともあれば、観客が物足りなくても創る側は確信していることもある。創り手はそのギャップに戸惑うことがときどきあるけれど、そこは演出家の判断でなにが良くてなにが悪いのかそこを信じるしかない。演出家はその判断のセンスをそのつど試されるわけで、それが刺激的なのだと思う。善くも悪くも。
 わたしたちは自分たちがそうだと思うものをやるだけだ。それが何回繰り返されてもつねに十全に実現できるように配慮すること。その評価はもう観客に任せるほかないわけで、わたしたちはそういう意味で淡々とやっていくしかないのだろう。明日もあさってもそのようにやっていきたい。
 残りのステージもまだご入場いただけます。劇場でお待ちしています。

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