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「町をつくる」
大阪の心斎橋にある劇場「ウイングフィールド」で烏丸ストロークロックの「漂白の家(メモ3)」を見た。11/8の夜のことだ。
 「あるところに六川という町がある」。例えばこのように舞台から告げられたとき、わたしたちはふつう架空の町で起こった出来事がこれから語られるのだなと思う。架空の町に生きる人間模様だとか事件とか、そういう芝居なのだと。ところが「漂白の家(メモ3)」はちょっと違う。実はずいぶん違う。
 「漂白の家(メモ3)」を見て今さらながらに気がついたのは、「今さら」と言うのはわたしが烏丸ストロークロックの作品をほとんど見ているわけだからもっと早くに気がついてよかったのにと思うところから言うのだが、それで今さら気がついたのはなにかと言うと、烏丸ストロークロックは物語を始めるのにまず「町をつくる」という作業から始めているということだ。その物語にも事件はある。しかしそこに入る前にしなければならないことがある、それがまず「町をつくる」ということだ。
 架空の町を設定して始まる物語はそれ自体珍しいことではないが、たいていはその町に生きる人々のことや事件などに焦点はすぐに定められ始まる。しかしその舞台では六川という町がかつて賑わいそしてすたれていった歴史が語られる。そしてやっとそこに住む人の話になる。しかしその話題の人は六川に不在であるという。
 架空ではあれ存在する町について語った後に、不在の人を語る。このときに町の存在と、その人がいないという空虚の両方ともがはっきりと浮かび上がるのだった。見事だと思った。
 「漂白の家」は三部作で三年をかけて創るのだという。第一部はすでに今年三月に上演されていて、今回の「メモ3」は第二部(来夏に上演予定らしい)の創作のためのまさに「メモ」だ。そういえば2004年4月に上演された「福音書-六川篇-」もそういうこと、つまり架空の町を作るということをしていたのだなと思い返した。今さら気がついた。
 物語を始める前にその舞台となる町を「つくる」作業をするのは、とある人物を語るのにその彼の生と彼が生きた場所(土地)の関係が不可分なものであるという確信があるからだろう。特にその町が「ニュータウン」と呼ばれる、現代になって突如歴史に現れた場所であることが、なおいっそう町の存在を確かめなければならないことの理由だと思う。
 たしかに「町のことを語る」という行為は、多くの観客にとってみればただの状況説明にしか思われないだろう。観客はその町がどんなところであるかということよりも、そこでどんな事件が起こったのかが気になっているのだから、舞台で行われている「町を語る」=「町をつくる」作業は観客には単に冗長なものにしか感じられないかもしれない。その町とやらを先に作ってから芝居を始めてくれよと。しかし町のことを語れば語るほどに、むしろそうすることではじめてその町に住む人の生が浮かび上がってくるのであって、町を語ることなしではそれこそ陳腐なダメな青年がおりましてという紹介に終わってしまうのだろう。
 問題はそこのところ、つまり舞台で町を語る(=つくる)必然性が観客に感じられるかどうかだ。そういう困難だけれど、貴重な作業を烏丸ストロークロックはしているのだと思った。そのようにして始まる物語をわたしはあまり知らない。そして少なくともわたしにとって「漂白の家(メモ3)」はその語る方法からしても、作業は成功していると感じられたのだった。次の「メモ」、そして第二部の本公演を楽しみに待ちたい。
 烏丸ストロークロック「漂白の家(メモ3)」は11日日曜日に京都芸術センターでも上演されるらしい。詳しくはこちら。上演時間は30分ほどだった。

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