14日のことだけれど、先輩に勧められていた
藤田嗣治展に行った。打ちのめされるような感覚。帰りにカタログや藤田に関する書籍を衝動買いするほどだった。
藤田は14歳の頃に画家を志してパリに行きたかったけれど周りのススメで大学までは出て、26歳で日本を飛び出す。第一次世界大戦、大恐慌、第二次世界大戦、太平洋戦争そして終戦と、戦前から戦後まで激しく変化する世界のなかを生きてきた。大恐慌の頃は中南米に渡り、日本に戻って戦争が始まると戦争記録画家として従軍し、戦争が終わるとパリに戻って晩年を過ごす。
大学時代に描いた藤田の自画像から順を追って観ていく。表現の手法やその主題がまるで旅の風景が変わっていくように刻々と変化している。会場のところどころで当時の社会情勢と藤田の動静が説明されてあるのを読んでその旅の像は結ばれていくのだけれど、むろんその旅には目的地がなくて、表現者としてのアイデンティティを模索し続けた生涯であることが分かる。
いつも異邦人だった。パリにいるときはもちろん日本人とみなされ、日本に戻ると西洋に感化された他者とみなされ。どの共同体からも疎外感を受ける孤独。それは彼の活動に良くも悪くもさまざまな影響を与えただろう。だから表現者としてのアイデンティティも否応なく時代や社会、世界のありようによって歪められたり補強されたり、少なくとも無関係ではいられない。それでも、なんというか陳腐な言い方になってしまうが、彼は自分の表現をあきらめない。
いつであっても自分の表現に誠実であろうとしたのだろうと思う。
一枚一枚の絵を単独で見せられていたら、ここまでの感慨は得られなかっただろう。藤田個人に関する情報と重ね合わせて「観る」というより「知る」というのは、美術の鑑賞の仕方としてはもしかすると邪道なのかもしれない。目の前にある絵を想像で一度真っ白に戻す。彼はどこから筆をつけてどのようにして色を足していったのか。アトリエの窓からはどんな光景が見えていてどんな音が聞こえるのか、気温は、天候は。どんな世界のなかにあって彼は筆をすすめたのだろうか。そういったことを想像しながら白いキャンバスから今見えている絵を立ち上げていく、そんな見方でゆっくりと回っていった。だから戦争画の前ではずいぶんと立ち止まってしまう。
そしてそれぞれの絵がその背後にどんな歴史を背負っているのか、それをもっと知りたくてとても分厚くて彼の絵が多く載っているカタログと、彼についての本を二冊衝動買いしてしまった。
藤田嗣治「異邦人」の生涯
近藤 史人
腕(ブラ)一本・巴里の横顔―藤田嗣治エッセイ選
藤田 嗣治, 近藤 史人
恥ずかしげも無く思い切って言うならば、今日のことは忘れられないだろう。彼が今のわたしと同じ歳の時には、パリに渡って初めての個展を開いたという。そのころの絵は会場に並べられたもののなかでは全体の四分の一にも満たない場所にあった。そこは81歳まで続く旅のほんの始まりに過ぎない。素直に強い憧れを抱いた。
ちなみに会場の上の階では常設展もあって、
ビエト・モンドリアンや
マルセル・デュシャンを見ることもできたのがこれまた嬉しかった。平安神宮の大きな鳥居がロビーの窓から目の前に見えた。その朱がとても印象的で。