1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

今後の活動予定はホームページをご覧ください

下鴨車窓のホームページはこちら

幻の手触り:「パライゾノート」


5月21日(日)14時からアトリエ劇研にて観劇。
 こういう考え方がある。たとえば「飛行機」について知るというときに、わたしたち大人はたとえばここにあるようなことばをたどることでそれを知る。大人だからというのは正確ではないかもしれない。ことばを知ったときから人はそのようにことばをたどりながら世界を知るようになるのだと言うべきだろう。一方で、子どもが狭い部屋のなかを駆け回っている。両腕を横に大きく伸ばして「ギューン」と叫びながらぐるぐる部屋のなかを駆け回る。いまその子は飛行機になっている。ある考え方というのは、この飛行機を真似て駆け回る子どもは、わたしたち大人がことばによって理解するよりも深く、本質の部分であるいは内側から「飛行機」を理解しているのではないかというものだ。「飛行機」を説明しようとしてことばで言い表すときにどうしてもこぼれ落ちてしまうものがある。それを子どもの身体はすべて引き受けている。「ギューン」という声にいたっては、もはやそれで表しているものをことばで表すことは不可能なのではないか。
 「パライゾ」は「天国」のフリガナとして与えられ、またその「天国」はかっこ書きで「場所なき場所」とされている。日常世界では見ることも触れることもできない「場所なき場所」。そのようなところに漂う人にはもはや生と死の区別も意味をなさない。生も死もないのに、人はそこで首をくくろうとしセックスをしようとし子どもを大事にしたりする。イメージは論理的な結びつきをせずに、中断・再開・変更される。変な夢を見ているようでもある。
 問題はそのような場所なき場所に放り出された人を演じる俳優にはなにが必要なのかということだ。子どもが飛行機をまねて駆け回る身振りをどうやって獲得したのかということについて説明することができないように、いまのところわたしにはあの二人の俳優がどのようにしてあの作品世界の住人を見事に演じてみせられたのかを説明することはできない。作家・演出家の指示で俳優が動くといったような一方通行の創作ではなく、作家・演出家のイメージを俳優が自身の表現と結びつけるという双方向の創作がなされた結果なのだろう。それにしてもよだれをダラダラと垂らしながらも語り続けるごまくんや、狂ったようにすいかをたたき割る筒井さんの演技だ。演技というよりも表現だ。命を削って二人がぶつかりあっているのが分かる。だから興奮するのだろうか。少なくとも飛行機を真似る子どものように二人はあの世界の住人を体現していたと言うことはできる。とにかくこの二人でなければ現出しない世界があきらかにあった。そういう場所に居合わせることができたのは幸せだったと言うほかない。
 マレビトの会の前作「王女A」については、「反言語」をキーワードにして、わたしたちが普段使うことばというのが制度化されたもので、また暴力性を孕んでいるということを告発しつつ言語の本質に触れようとする身振りだとその作品について書いたのだけれど、「パライゾノート」の視野は抽象的な「言語」だけではなく、わたしたちの身体へと、身体が制度化されているというところまで広がっている。というのも、この作品で問題になっているのは「言語」そのものよりも「声」だからだ。むしろことばそのものについては、前作で解体/分断されたわたしたちの日常で使うことばは今回の作品ではその意味を回復されている。その人が語っているであろうことばが天井から聞こえてくる。あるいは天井からの声とその人自身の声が重なって聞こえる。あるいは天井からの声を追いかけたり追い抜かれたり。こういう身振りによって、声とことばと身体がそれぞれひきはがされる瞬間がかいま見えてくる。そうしたときにむしろ逆にその三者が目に見えない接着剤(わたしはそれを「制度」と呼んでいる)でぴたりと結び合わされていたのだということをわたしたちは知るのである。その人の名前を忘れてしまったのだけど、ある腹話術をする人の芸でことばを発する口の動きとその声がずれて聞こえてくるというものがあった。初めてそれを見たときのある気持ち悪さというか、もちろん面白いのだけれども、そのときの感触と「パライゾノート」の声のずれを目の当たりにした感触はとても似ている。この声のずれは劇中ずっと続くわけではないのだけれど、わたしたちはその声のずれを目の当たりにして、幻とも言うべき世界に誘い込まれていく。
 その世界を目撃しながら表現が自由であることについて考えた。表現する者は誰しも自身がなんにも縛られず自由に表現していると思っているのだけれど、実際のところ「自由な表現」というのを実現するのは非常に困難だ。演劇に限って言えば、制度化されたことばをたとえば台詞として使わなければならないとか、近代劇の作法というのは知らず知らずのうちに表現者のなかに浸透していて、言い方を変えればそれに縛られていると言えなくもない。だからこそある表現者は厳然たる自由を求めて抵抗をする。「前衛であることを忘れた表現はもはや表現とはよべない」というのはわたしの先輩が言ったことばを都合良く使っているのだけれども、その前衛でさえも一瞬にして固定化され制度になる。たとえばそれは「メソッド」と呼ばれることで制度になるが、この時点においてもはやそれは自由な表現とはなんの関わり合いももたなくなる。「パライゾノート」にも制度になってしまう危うさというのはつねにあるのだけれども、けれどわたしが楽観的であるのは、作品の中心が俳優でありさえすればなんとかその自由を、その表現がいかなることに対しても非同一であることを保てるのではないかという直感があるからだ。果たしてかいま見えるパライゾの世界は狂騒していく。幻はより散らかされていく。夜空に散らかされた星々のあいだを人の想像が線で結んで、そこに動物や人の像をつくる。星そのものは何の意図もなく規則も制度もなくただ散らばってあるだけだ。しかし星々の、何に対しても非同一であるということが確かであるからこそ、人々は想像しそして美を見いだすのではないか。わたしには星を見る趣味はないのだけれど、「パライゾノート」の美しさはきっとそのように形容できるだろう。そして夜空の星なんかよりもよっぽと狂騒としているあの世界にわたしは惹きつけられた。
 祭りのように狂っていくその世界に見入っているときに、ふと劇中でたたき割られたすいかの甘い香りが鼻についた。そのときにわたしはあの二人の俳優がいる場所を遠くに眺めているのではなく、そこに居合わせていることを思い出す。そうしてその幻に少しだけ触れたような気持ちになる。
 幻を見るだけなら夢ですむ。幻の手触りを知るためにきっと演劇は必要なのだ。そんなことまで考えさせられたのだった。

noartnolifenewものかき
lovetheaterトラックバックピープル
スポンサーサイト
- | - | -
COMMENT









TRACKBACK URL
http://tana2yo.jugem.jp/trackback/385942
TRACKBACK