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反言語の地平へ:「王女A」
「非言語芸術」といえばたとえばダンスのように表現世界を構築するのに言語を用いない方法のことを言う。これは実世界がまさに言語によって成り立っているという事実をふまえてのものであり、また制度としての言語への反発であり、言語の表現ではこぼれ落ちてしまうものをすくい上げようという身振りである。
 「王女A」は非言語ではない。逆にそのことばの量は半端じゃないほどに多い。つねに誰かによってどこからか発せられることば。そしてそれはことば同士の意味としてのつながりを拒否し、あるいは長大な散文詩と言えるかもしれない。ことばがつながり意味が現れることはすなわち言語が制度として作用しているということだ。もちろんわたしたちの生活はことばに意味を持たせそれを共有しながらでなければ成り立たない。意味を持つ、そして共有するということが可能になるために、言語は制度化を必要とするのである。無秩序な言語というのは背理なのだ。
 しかし制度としての言語にはそれゆえにつねに暴力性をはらむ。たとえばある国家を侵略するためには現地の公用語を禁止し、侵略する側の言語を強要するのが有効であるように。また、わたしたちの一見自由であるようなことばも、実はその制度の外に越え出て使うことができない。つまりわたしたちの思考もこの言語の制度の枠組みによって決められていて括弧付きの自由でしかない。もちろんこの括弧は言語の原理であって外すことはできない。
 ただ、だからといって言語の持つ様々な相に無自覚であるのはとても危険なことなのだ。「王女A」は制度化された言語のつながりからできるだけ遠くに離れることによって、言語の暴力性を逆に浮き彫りにしている。
 これを反言語の身振りとわたしは呼びたい。非言語であることができるのはそのような表現を見ているあいだだけだ。非言語芸術に触れているときに時々感じる憂鬱はわたしたちが言語から結局は離れることができないという事実に由来する。反言語の身振りはその事実のただ中にあって、なお忘れるべきでないことを忘れないでおこうという呼びかけに感じられた。かつて制度に反対することはその制度の外からでなければできないと考えられていた。たとえば共産主義における資本主義への反対のように。しかし、グローバル化・消費化・情報化する世界にもはや外部はなくなってしまった。外部と思いこんでいるその場所はコインの裏でしかもはやないのだ。そのような状況のなかにあって、外部にあろうとする「非」ではなく内部にあってなお告発しようとする「反」という態度に感銘を受けた。
 そして告発をしつつも、言語の本質をさかのぼっていき、ラストの場面。瑣末なものの名詞が次々と並べられ、それが「ある」と告げられるときに、言語においてわたしたちに許されていることがあるならばそれだけなのではと思い知らされたような気がして、涙が落ちそうになった。
 暴力や美、存在や不在などあらゆる矛盾をかかえた宿命をもつ言語を、わたしたちはそれでも背負っていかなければならないのだろう。

 「王女A」の東京公演は今日から。

noartnolife
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